第79回ゴールデングローブ賞「非英語映画賞」を日本映画としては実に62年ぶりに受賞。
第94回アカデミー賞では、日本映画としては史上初となる「作品賞」を含む4部門にノミネートされ「国際長編映画賞」を受賞し、話題を呼んだ本作。
村上春樹原作による映画作品はこれまでにいくつか公開されるも、やはり村上春樹の作品は小説でその面白さを発揮するのだと痛感させられる結果となりました。
『ドライブ・マイ・カー』は難しい印象があるものの、村上春樹としての文学らしさを残しつつ、しっかりと映画として楽しめる作品となっています。
今回は、映画『ドライブ・マイ・カー』をより楽しむために、鑑賞後に沸き上がるいくつかの疑問について書いていければと思います。
『ドライブ・マイ・カー』作品概要
公開日:2021年8月20日
監督:濱口竜介
キャスト:
家福悠介(西島秀俊)
渡利みさき(三浦透子)
家福音(霧島れいか)
イ・ユナ(パク・ユリム)
コン・ユンス(ジン・デヨン)
ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)
高槻耕史(岡田将生)
『ドライブ・マイ・カー』視聴方法
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『ドライブ・マイ・カー』あらすじと考察
家福悠介の妻の音(おと)は、家福とベッドを共にしたあと唐突に物語を語りだします。
女子高生が片思いの山賀という青年の家に空き巣に入る話だ。
朝になると音は、物語の内容も自分が物語を語ったことすら覚えていません。
音はTVドラマの脚本家で、家福は音が語る物語を覚えて音に話してやる。
音はそれをTVドラマの脚本にしています。
原作となっているのは「ドライブ・マイ・カー」だけではない
映画『ドライブ・マイ・カー』の原作は、村上春樹による短編集「女のいない男たち」。
「女のいない男たち」は6篇の短編小説からなっており、映画化するにあたり同名の「ドライブ・マイ・カー」だけでなく「木野」「シェエラザード」が投影されています。
音がSEXのあとに物語を語るという設定は、「シェエラザード」から反映されています。
『ドライブ・マイ・カー』の登場人物とは全く別の話ですが、世間から引き離された主人公と、その世話係の“シェエラザード”の関係を家福と音の関係に当てはめています。
小説の主人公の羽原は、理由の説明はないものの、世間から切り離された「ハウス」に住んでいます。
その世話をシェエラザード(羽原が名付けたもので本名は不明)がしているというものです。
SEXのあとにシェエラザードが物語を語りだす、という点は同じですが、シェエラザードはその物語をちゃんと覚えています。
映画で音が話す物語も、小説とは少し違うものの、ほぼシェエラザードが語る物語と同じものです。
家福は俳優兼演出家。
公演を終え、控室でメイクを落としていると音がやってきて俳優の高槻を紹介する。
高槻は最近人気の若手俳優で、音ともずいぶん親密なようでした。
家福が審査員のためウラジオストクへ行く日。
空港に着き車を止めると、寒波のためフライトキャンセルの知らせが入ります。
仕方なく家へととんぼ返りすると、音は見知らぬ男と情事におよんでいました。
家福はそれを見なかったことにし、空港近くのホテルに泊まることします。
家福はついに昼間目撃したことを音に問いただすことはしませんでした。
家福と音のあいだには子供がいました。
4歳の時に亡くなってしまい、その日はその娘の法事でした。
法事の夜、家福と音はSEXをします。
SEXをしながら音はヤツメウナギの話と空き巣の女子高生の話の続きを話します。
音が話す物語に登場する【もう一人の空き巣】とは何を意味しているのか?
小説の「シェエラザード」には、もう一人の空き巣は登場しません。
女子高生が山賀のシャツを1枚盗んでしまうと、家族に感づかれ、女子高生は二度と山賀の家に空き巣に入ることができなくなってしまいます。
映画では小説に登場しない【もう一人の空き巣】が、女子高生と鉢合わせてしまうという話が追加されます。
もう一人の空き巣と鉢合わせてしまった女子高生は、空き巣のことを殺してしまいます。
女子高生はどうしようもなく、その空き巣の血まみれの死体を山賀の部屋に残して家に帰ります。
翌日、騒ぎになることを覚悟で登校しますが、山賀は何事もなかったかのように過ごしています。
女子高生が再び山賀の家に行くと、鍵は変えられ玄関前には監視カメラが仕掛けられています。
女子高生は監視カメラに向かって「自分が殺した」と言い続けるのでした。
映画ではなぜ小説にない「もう一人の空き巣」を追加したのでしょうか?
これは人を殺してしまい本当は罰を与えられるべき=浮気をして本当は家福に問いただしてほしいという音の想いをあらわしています。
人を殺したのに山賀はそしらぬ顔をしている=浮気をしているのに家福は気づかないふりをしているということです。
音の物語の主人公も監視カメラに向かって必死に「自分が殺した」と言い続けます。
音も浮気をしていることを家福に気づいてもらい、罰を与えられたいと思っているのです。
音は家福に「帰ってきたら話がある」と言います。
家福は予定のあるふりをして、あてもなくドライブに出かけます。
音の告白によって自分たちの関係が壊れてしまうのが怖いのです。
家福が夜中に家に戻ると、音は暗い部屋の中で倒れていました。
音は脳卒中で亡くなってしまいます。
なぜ家福はワーニャ叔父さんを演じることができないのか?
音の死をきっかけに家福は「ワーニャ叔父さん」を演じることができなくなってしまいます。
「ワーニャ叔父さん」は1897年にロシアの作家アントン・チェーホフによって書かれた戯曲です。
田舎の土地を管理しながらほそぼそと暮らすワーニャは、亡くなった妹の夫である大学教授のために一生懸命働いてきました。
しかし、その崇拝してきた大学教授が年老いてしまうと、ワーニャは大学教授が何の中身もない人間だということに気づいてしまいます。
さらにその大学教授は、ワーニャが一生懸命管理してきた土地を売りに出すよう提案してきます。
そのことにワーニャは絶望し、大学教授を殺すことすら考えます。
亡くなった妹と大学教授の娘であるソーニャも、ワーニャとともに一生懸命大学教授につくしてきました。
ソーニャは不器量なことから意中の医者に振り向いてもらえず絶望しています。
ソーニャは自分が絶望しながらも「どんなにつらくても生きていかねばならない」とワーニャを慰めるのです。
家福は音に浮気されてしまいました。
そのことを音と話すことから逃げているうちに音は死んでしまいます。
さらに家福と音のあいだには4歳で死んでしまった娘がいます。
チェーホフは自分の書いた戯曲に「自分を差し出すこと」を要求しています。
劇中の家福のセリフでも「チェーホフは恐ろしい。彼のテキストを口にすると自分自身が引きずり出される。そのことにもう耐えられなくなってしまった。」と語っています
ワーニャのつらさが自身のつらさと重なってしまい、家福はワーニャを演じることができないのです。
小説ではタイトルしか出てこない「ワーニャ叔父さん」が映画では稽古を通じてほぼ最初から最後まで見ることができるのも、ワーニャと家福の心情が連動しているからです。
–2年後–
家福は広島国際演劇祭から「ワーニャ叔父さん」の演出を依頼されます。
演劇祭側からの決まりとして、ドライバーをつけなければいけないようです。
家福はテストして気に入らなかったらドライバーを外れてもらうという条件を出し、しぶしぶそれを了承する。
ドライバーは渡利みさき。顔に傷があり愛想もよくない20代の女性です。
みさきの運転は全く危なげなく、家福もみさきをドライバーとして認めます。
家福は各国から集まった俳優のオーディションを始めます。
応募者には高槻もいました。
高槻は色男の医者、アーストロフ役を希望しています。
高槻は家福も圧倒するくらいの迫真の演技をみせつけます。
しかし家福は、ワーニャ役に高槻を指名します。
高槻は年が大きく離れているワーニャ役に自分が選ばれたことに困惑しますが、それを了承します。
ただロボットのようにセリフを読み上げるだけの本読み
「ワーニャ叔父さん」の稽古は本読みの時間が多く、さらに家福は俳優たちに感情をなくしロボットのように本を読むことを要求します。
これは本を繰り返し読むことでその本が持つ意味を俳優たちに理解させるためです。
本が持つ意味が理解できると演技が自然になるのです。
これは実際に濱口竜介監督が得意とする演技指導方法で、『ドライブ・マイ・カー』でも俳優たちは何度も何度も本読みをしたようです。
本読みが終わった後、高槻は家福を飲みに誘います。
高槻は売れた後、女性関係で不祥事を起こし事務所をクビになりフリーで活動していました。
高槻は女性関係にゆるいようです。
2人が飲んでいる最中、ほかの客が家福と高槻のことをこっそり撮影し、それに気づいた高槻はその客に激高します。
高槻は自分の感情をうまくコントロールできないようです。
家福はなぜ高槻と飲みにいくのか?
家福は音がなぜほかの男と寝なければならないのかわからないまま、音を亡くしてしまいました。
高槻と話すことでその答えを見つけようとしたのです。
これは小説「ドライブ・マイ・カー」に書かれています。
家福はドライバーのみさきと心を通わせていくうちに、自分の心境をみさきに話していきます。
家福は高槻と友達になれば音がほかの男となぜ寝ていたのかという答えがわかるかもしれないとみさきに話します。
高槻に酒を飲ませれば、余計なスキャンダルを聞き出して高槻をおとしめることができたかもしれないとも話します。
高槻をワーニャ役に指名したのは、ワーニャのような絶望感を高槻に感じてもらうためかもしれません。
家福とみさきは送り迎えの道中で次第に心を通わせていきます。
みさきは母が水商売をしているため、中学の時から母を送り迎えをしていました。
母を起こすような運転をすると母はみさきを殴るため、みさきの運転技術は向上したのです。
みさきは母の死について家福に話します。
みさきの母は地滑りによって家に残され死んでしまいました。
みさきは18歳で故郷を飛び出し、広島に来ました。
家福も妻が死んでしまっていることをみさきに告白します。
その後もみさきが見たいと言っていたワーニャ叔父さんの稽古を見せてやったり、家福とみさきの距離は近づいていきます。
高槻はまた家福を飲みに誘います。
高槻はなぜ自分でワーニャを演じないのか、自分がワーニャを演じることは場違いに感じると打ち明けます。
その帰り道、家福音がSEXのあとに物語を語っていたことを高槻に話します。
音が浮気していたことも。
高槻は音がSEXのあとに話す女子高生が空き巣に入る話を知っています。
しかも、家福が聞かされていない話の続きを知っていました。
音はなぜ家福を愛しながらほかの男と寝るのか?
村上春樹の小説で、愛する人がいながらもほかの男と寝てしまう、ということはよく書かれています。
これは人間の中の「どす黒い渦」の一つの表現で、明確な答えがあるわけではありません。
村上春樹の小説では基本的にこの「どす黒い渦」みたいなもののことが書いてあるのだと思います。
それが一言では表すことができないので長編になったり短編になったりと形を変えて書かれているのです。
音の浮気もその「どす黒い渦」の一つであり、映画『ドライブ・マイ・カー』はそのどす黒い渦に巻き込まれそうになる家福が描かれているのです。
稽古中、警察がやってきます。
高槻が2回目に家福と飲んでいた時、高槻はこっそり写真を撮っていた人を追いかけ殴っていました。
殴られた人物は殴られたことが原因で亡くなってしまったのです。
高槻は傷害致死で逮捕されてしまいました。
家福は公演を中止するか、ワーニャを自分が演じることで続行するかの選択を迫られます。
家福はみさきに故郷を見せてくれと頼みます。
道中、家福はみさきに音が死んでしまった日のことを話します。
そのことで家福は自責の念に捕らわれていました。
みさきも自分が母を殺していまったと思っていて、後悔しています。
家が地滑りに巻き込まれたとき、みさきは母を助け出すことができたかもしれないのです。
みさきの故郷に到着すると、土砂崩れでつぶれてしまったままの家が残っていました。
みさきはその家に花を添えてやります。
みさきの母には幸という8歳の別人格があったと告白します。
母がみさきに暴力をふるった後によく現れました。
幸はみさきのたった一人の友達でもあったのです。
みさきは涙を流しながら家福にその話をします。
家福は音が浮気をしていたことを知ったとき気づかないふりをしたし、傷ついていないふりをしました。
それは音を知ろうとしなかっただけだということに気づきます。
今でならやり直すこともできる気持ちでいますが、もう遅いとなげきます。
家福とみさきは生きているものは亡くなってしまった人のことを考えながらつらくても生きていかなければならないと慰めあいます。
広島に戻ると家福はワーニャを演じます。
演じるつらさはありますが、劇場は満員の観客であふれています。
「木野」はどの内容が映画に反映されているのか?
映画『ドライブ・マイ・カー』は小説「女のいない男たち」から「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」「木野」の3編が原作として使われています。「ドライブ・マイ・カー」は言わずもがな、「シェエラザード」はSEXのあとに物語を語るという設定が使われています。
では「木野」はどの内容が映画に反映されているのでしょうか?
「木野」の主人公である木野もまた、妻の浮気の現場を見つけてしまいます。
その妻が亡くなってしまうことはなく、お互いに納得して離婚をします。
木野は務めていた会社を退職し、バーを開業します。
バーには常連として神田(かみた)という寡黙な男や、体に傷のある女が登場し、傷のある女とは不思議とベッドを共にする仲になっていきます。
ある日木野は、このバーをしばらくのあいだ離れ、転々と移動し続けるよう神田から警告を受けます。
木野が正しいことをしなかったため「どす黒い渦」が木野のもとへ近づいてくるというのです。
小説では実際に木野のもとへ、その「どす黒い渦」が近づいてくる様子が描かれています。
「木野」から映画『ドライブ・マイ・カー』に使われている設定は、主人公が正しい選択をしなかったために「どす黒い渦」が近づいてくるという点です。
「木野」で主人公は妻の浮気を見つけますが、怒ることもせず傷つくという感情からも逃げてしまいます。
映画『ドライブ・マイ・カー』でも、家福は妻の浮気を知りながらも、怒ること、傷つくことから逃避します。
高槻が逮捕され北海道に向かうとき、トンネルが不気味に口を開けているように見えたり、フェリーから見下ろす海はまさに「どす黒い渦」が家福に迫っていることを表現しています。
村上春樹の小説はエンターテインメントではないので、ただ単に映像化するのではよくわからないものになってしまうし、独自の設定ばかり入れ込んでしまうと「村上春樹的」ではなくなってしまいます。
映画『ドライブ・マイ・カー』がここまで評価されているのは、村上春樹の世界を損なうことなく、映画として見ごたえのあるものにするために足された要素がまさに適切だったからといえるでしょう。